寺院概要

新善光寺の宗旨

新善光寺は、浄土宗という宗派のお寺です。
浄土宗は、法然上人(ほうねんしょうにん・1133~1212)によって開かれました。法然上人は、お釈迦さまの御教(みおし)えの中に、自己中心的な在り方をしている私たち凡夫(ぼんぶ)が救われる道があるのかということを深く思い悩み苦しんでおられました。その嘆きと悲しみの末に、お念仏の道をお釈迦さまの御教(みおし)えの中から発見されました。今からおよそ850年前のことです。その道は、脈々と伝えられ、今も私たちに受け継がれています。これにより、法然上人をお念仏の〝元祖(がんそ)〟と仰ぐのです。
お念仏とは、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と声に出して称(とな)えることです。浄土宗では、お念仏申す日々の中で、自らを見つめ、そのいたらなさを痛感しつつ、如来さまの大いなるやさしさを頂戴し、命終わらん時には、阿弥陀さまのお迎えによりお浄土に往(い)き生まれさせていただくことを大切にしています。また、お浄土とは、別れてもなお会うことのできる世界です。お念仏申す者同志は、後先(あとさき)こそありますが、お浄土に咲く蓮の台(うてな)の中で心と心が通じ合うのです。

新善光寺の歴史

明治17年、大谷玄超(げんちょう)師により当寺は開山しました。大正14年には、林玄松(げんしょう)師により藻岩の地に札幌養老院が開設され、以来、地域のお年寄りの健やかな老後を支えてまいりました。現在は、札幌慈啓会(じけいかい)と名称は変われども、地域の福祉にその精神は活かされています。
昭和16年には、戦禍により梵鐘が供出されました。
昭和21年、大火により伽藍が焼失。その火災により、お寺でお預かりしていたご遺骨約5000体が散り散りになりました。昭和26年、太田隆賢(りゅうけん)師によりそのご遺骨を集め、お骨仏(こつぶつ)を造立(ぞうりゅう)することを発願(ほつがん)。昭和28年にそのお骨仏が完成し、開眼(かいげん)法要が勤められました。昭和39年に念願の本堂を再建し、昭和48年には、先の大戦で失った梵鐘が再び鋳造され、新たな鐘の音が響きわたりました。
平成3年、境内の北東に宝塔を建立(こんりゅう)。平成17年には、宝塔に永代供養合葬墓を増設し、時代に即したご供養の在り方を求めました。明治・大正・昭和・平成・令和と札幌の歴史とともに、人々の生き方と命の終わりを見つめ続けてきたお寺が新善光寺なのです。

北縁山新善光寺という名のいわれ

当寺の山号(さんごう)は北縁山(ほくえんざん)といいます。縁山(えんざん)とは、東京の芝・増上寺(ぞうじょうじ)のことで、北にある増上寺の流れをくむお寺であることを意味します。また、当寺の本堂におまつりしているご本尊は、長野・善光寺の一光三尊仏(いっこうさんぞんぶつ)を模した如来さまです。信州長野の善光寺は、皇極(こうぎょく)天皇の御代に創建されたと伝えられますから1300年以上の長きにわたり、私たち日本人の心のよりどころであります。その善光寺如来さまを少しでも身近に感じていただければということで、この札幌に地にあるのが新善光寺です。

新善光寺沿革

明治15年、大谷玄超上人が大本山増上寺特命開教師として北海道一円を巡教した際、札幌に一寺創立を計画しました。
明治17年、薄野の一角に新善光寺公称の許可を得て草庵を建立し開山に至りました。

明治17年 「新善光寺」寺号公称の許可を得て開山。
明治34年 旧本堂完成
大正14年 第二世住職、林玄松上人が発願し、檀信徒の浄財喜拾により札幌養老院(現 慈啓会老人ホーム)を開院
昭和21年 札幌大火の類焼に遭い、大伽藍が烏有に帰す
昭和26年 太田隆賢上人が五世法灯を受け継ぎ、火災で災厄を受けた遺骨5000体の泰安のために大骨仏を造像し、檀信徒の先祖の霊を慰める
昭和28年 骨仏完成
昭和39年 現在の大本堂再建完了、併せて地下に納骨堂が完成
昭和41年 客殿 輝雲台完成
昭和45年 客殿 和順殿完成
昭和47年 白石地区仏教保育のため、白石幼稚園を開設
昭和48年 鐘楼堂完成 天然石 慈母観音を境内に安置
昭和51年 第二納骨堂 霊光殿完成
昭和56年 明照殿完成
昭和58年 第五世、隆賢上人が、東京 霊源寺住職(兼務)を拝命し、伽藍を復興
平成3年 宝塔完成 新善光寺の六世法灯を現住職、太田眞琴上人が受け継ぐ
平成4年 第五世、隆賢上人、遷化
平成6年 山門 ≪無礙光門≫完成

境内案内

山門 【無礙光門】

鐘楼堂

宝塔

石庭

天然石慈母観音像

本堂

本堂襖絵

骨仏

当山は、昭和21年の類焼により、大伽藍が全焼し、この時に約五千体の遺骨が災厄を受けました。
昭和26年に五代住職となった太田隆賢師(平成4年遷化)が遺骨奉安のために、焼け残った遺骨で大骨仏の造像を発願し、昭和28年に完成しました。

阿弥陀如来坐像

阿弥陀如来坐像は、昭和39年に京都の浄国寺から遷された仏像です。
当初は鎌倉時代の作と伝えられていましたが、昭和53年に仏像研究家で函館博物館の森川不覚氏が当山を訪れた際に、仏像の特徴から調査した結果、平安時代後期の作と断定しました。当時は重要文化財申請も考えられましたが、管理等を考慮して見合わせました。
平成4年に、武蔵野美術大学の田辺三郎助氏に鑑定を依頼し、当山に於いて鑑定作業が行われ、平安時代後期の作との結果が得られました。

仏像の特徴

像高…52センチメートル
仏像の目…木を彫刻した彫眼 目尻の線と眉毛が交わらない
螺髪のはえぎわ…小粒で水平 鎌倉時代作は 、ひたいの中央部が半円形に下がっている
仏像の姿勢…直立に近い形で、胸や腹が薄い 鎌倉時代作は、まえかがみ、ねこ背でたくましい筋骨
上記の特徴が平安時代の作であることを裏付けています。